「回り道」という「近道」

ヤマシロ物語

 

どうも、こんにちは。

 

つい数日ほど前、綿密な密着取材を通じて、各分野で活躍する超一流の方々の赤裸々な人物像の掘り下げで人気を博する某ドキュメンタリー番組が大きな反響を呼んでいましたが、やっぱり“本物”の「職人」や「仕事人」の生き様というものは、それだけでまるで1本の映画や小説のように劇的なんですね。

分野も領域もまったく異なれど、その“道”に真摯に没頭する彼らの姿に心地のよい刺激をもらい、改めて「自分もかくありたい」と発奮させてもらった山城です。

 

僕もいまでは「消化器内科」を、その中でも特に「内視鏡」を「スペシャリティ(専門分野)」として確固たる自分の大事な“軸”の中心に据えて久しいですが、実のところ、最初から「消化器内科医になろう」と決めていた訳ではなかったりします。

という訳で、今日は僕が「内視鏡」の道に進むに至るまでの経緯について、ちょっとお話させてもらいたいと思います。




さて、僕が医学生だった頃は、まだまだ医局制度が業界を席捲していた時代。ほとんどの医学生は、医学部を卒業したら、そのまま大学の医局に入るのが当たり前という時代でした。

 

なので、「自分の進む科を決めて、医局に入る」ということは、そのまま卒業の時点で自分の「スペシャリティ」を決めるということにほかなりません。

でも、僕は結局、医学部を卒業するに至った時点でも、どの科に進むか、何を自分の専門分野にするかを決め切れていなかったんです。



だって、全部が面白そうで、何を選んでもすべて楽しそうで、外科系や内科系はもちろん、精神科系にだって興味がありました。

精神科系もなかなかにミステリアスな世界ではありますが、何か絶対そこに純然たる「学問」はあるはずだと、いまでも考えています。




閑話休題。

そういう訳で自分の進む道を決めきれなかった僕は、卒業した筑波大学の医局には入らず、地元である沖縄に帰る道を選択することにしました。

 

でも、当時は95%くらいの医学生は卒業した大学の医局にそのまま残るような時代でしたので、それこそもはや「異端児」扱いです。

もう毎日のように、大学の教授たちから「山城、よく考え直せ」と説得の電話が掛かってくる日々を、しばらく過ごす羽目になりました。

 



「自分の地元に戻って仕事をしたい、という君の言っていることも気持ちも分かる。君の行こうとしている病院も確かにとても素晴らしい病院だとは思うんだけど、日本の医療全体から見たらたったの1%くらいの本当に小さな分野だから、そこに行くことで君の将来性は閉ざされてしまうよ」



 

当時、とある教授からこのように言われたことをよく覚えています。

結局のところ、「大学に残って教授になることこそが、医者にとっての最終的なゴールだ」という風な考えで、僕を引き留めていた訳です。

 

でも、大学の派閥争いで苦労した自分の父親のことなどもあり、元々僕に「医局に残りたい」という思いはありませんでした。

むしろ、「卒業したら沖縄に戻って町医者になって、地域の人たちのために役立ちたい」という気持ちの方がずっと強かったので、最終的に「沖縄民医連」の門戸を叩くことに決めました。

 

沖縄の砂浜

 

 

「スーパーローテート方式」と言って、研修医が内科から外科、産婦人科、小児科、麻酔科まですべてを研修することのできる研修方式がありまして、いまでは“当たり前”となっているこの仕組みを、当時いち早く採り入れていたのが「沖縄民医連」だったんです。

自分の専門分野を決めきれていなかった僕は、当時としては画期的なそのシステムに惹かれて飛び込んだ訳ですが、結局、そこで2年間の研修を終えた時にも、まだ自分の進みたい道を決めきれていませんでした

 

だって、やっぱり医学生の時から思っていた通り、すべての科でその科ならではのやりがいがあって、どの科もやればやるほど面白いんですから。

外科は外科で当然楽しいですし、麻酔科は麻酔科で本当に「職人」の世界ですし、婦人科は婦人科で、お産で子どもを取り上げられる喜びは格別ですから、決めようがありません。

 

 

それで、「病院としては全然OK」だということで、普通は初期研修は2年で終わるところ、僕は3年間やらせてもらっちゃいました

でも、いまとなってはもう本当に申し訳なさすら覚えるんですが、それでもやっぱり決められなかったんです。つくづく、やればやるほど面白い。

 

ただ、その3年間の中で、4ヶ月間ほど「消化器研修」というのがあったんですが、そこで内視鏡をかなり握らせてもらっていたんです。

それが後々になって大きな意味を持ってくることにもなった訳ですが、その時点ではまだ“決め手”とはなりませんでした。



 

それでも、流石に4年目からは「自分の専門分野を持たないままでいる」という訳にもいかなくなり、色々悩んだ挙句に僕が選んだのは、「救急・ICU」に進む道

 

研修医としてではなく、一人の自立した医師として、まずは幅広く色々な患者や症例を見てみたかった、という想いが決め手となりました。

要するに、当時の僕は「自分の科、自分のスペシャリティしか診られません」ではなく、「何が来ても怖くないし、何でも来い」というような自分になりたかったんです。

 

救急車

 

ちなみに、当時はまだ「救急科」の重要性がいまほど評価されていなかった上に、現在のように「救急総合診療科」といったような形で確立されてもいなかったので、本当に雑多な、言ってしまえば「何でもあり」な感じの世界でした。

業界的な風潮としても、「専門分野に進まない人が行く場所」だったり、あるいは「大学の医局に残れない人たちが行くところ」だったりと、ちょっとネガティブに揶揄されていた時代もそれなりに長かったように思われます。

 

そうして卒後8年目まで「救急・ICU」で修行の日々に明け暮れた頃、ようやく「内科系から外科系、婦人科系に小児科系まで、だいたいもう何が来ても一通り対応できるし、恐くないぞ」という段階に至ったんですが、そこで再び「自分の専門性」の問題が眼前に立ち塞がりました

 

 

「このまま救急の道を進み続けるのか、それとも別の道を模索するのか」

 

 

そう自分自身を見つめ直した時、それまでの自分が消化器や内視鏡にかなり力を入れてやっていたということもあって、本格的に内視鏡の道に進むことを決断するに至りました。

 

「救急・ICU」は、若手がどんどん入ってくる世界でしたので、「この場所は若手の先生方にお任せして、僕は僕のスペシャリティで、僕のやれることをしっかりやっていこう」という想いが強くなっていた、ということもあります。

……「年齢を重ねると共に、24時間不眠不休で働くような“体力勝負”のハードワークが段々ときつくなってきていた」という切ない事情も、その決断の背景にあったことは公然の秘密です(笑)

 

 

何にせよ、その後、僕は「内視鏡」の腕に全力で磨きをかけるべく、別の病院に移ることに決めました。まぁ、その病院でまた色々な壁やトラブルにぶち当たることとなる訳ですが、その辺りについては語り始めると切りがなくなりそうなので、また別の機会に譲るとしまして──。

こうして改めて自分の歩んできた道を振り返ってみて胸中をよぎるのは、「現在の自分という存在は、本当に大小無数の選択の上に成り立っているんだなぁ」という深い感慨です。

 

思えばここに至るまでに色々と回り道をしたように思わなくもないですが、きっと無数にあり得たはずの「自分」の中でも「いまの僕」が「最高の自分」であって、これまで歩んできた道のりが、きっと「最短距離」だったんだろうと信じています。

今年9月からは、また新たな未知のステージに突入し、新たな挑戦の日々が幕を開けることとなりますが、また何年かして“後ろ”を振り返った時にも、自信をもって「いまの自分が最高だ」と胸を張れる自分で在り続けたいものです。

 

山城   

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