部屋とラジコンと私

ヤマシロ物語

 

どうも、こんにちは。

年末年始の慌ただしい時期を乗り越えて、ようやく一息付けそうだと思った矢先に、沖縄らしからぬ強烈な寒波に襲われたせいで、かえって息を詰まらせそうになっている山城です。

 

 

さて、新年一発目の投稿で何をお話するかについては、僕も少し悩んだところなのですが、「一年の計は元旦にあり」などと、先人たちも口を酸っぱくして後進に伝えてくれているように、やはり何事も最初が肝心というものでしょう。

 

何かとネガティブな報道が話題をさらいがちだった2020年を終え、新たに2021年を迎えて心機一転。

「クリニックの開院」という大きな今年の目標を前にして、改めて「初心にかえる」という意味も込めて、今日は僕の少年時代の想い出についてちょっとお話させていただきたいと思います。

 

 

皆さん、幼い子供の頃、あるいは青春時代に何かにひた向きに打ち込んだ経験を多かれ少なかれお持ちのことと思われますが、僕の場合、その「何か」は間違いなく「ラジコン」でした



それは、小学校からの帰り道のこと。

年上のお兄さんたちが空き地で縦横無尽に走らせるオフロードカーを目にした瞬間、その驚くような速さと格好よさに一目惚れした僕は、あれよあれよと言う間にラジコンという名の“沼”に転がり落ちていくこととなりました。



そのハマりようと言えば、小学生の身ながら毎朝5時に起きてはせっせと新聞配達のバイトに精を出し、そうして毎月稼げる2万円くらいのお金をすべてラジコン代に注ぎ込むほど。

まさに「模範的なラジコン少年」だったと言えるでしょう。




そうして、幸運にも「首里レーシングクラブ(SRC)」という当時のラジコン界ではそれなりに名の知れた強豪チームに所属することもできた僕は、日々仲間と切磋琢磨しながらラジコンの腕を磨く生活を送ることとなりました。

そして、僕にとってさらに幸運だったのは、当時のチームには、僕がのちに「神様」と崇めるようになる高校生のお兄さんが所属していたことです。



沖縄工業高校に通っていたこともあって、機械に関する凄まじい技術と知識を持った方で、僕はそのお兄さんから色々と教えてもらいながら練習していたんですが、次第にラジコンの「操作」に関してだけは、僕の方により適性があることが判明

そうして、自然と二人の間で綺麗な役割分担が出来上がり始めると、お兄さんと僕とのタッグは、めきめきと実力を付けていくことになり、当然その勢いのまま、県内で開催される様々な大会にも参加するようになりました。

 

 

ただ、当時はまだ米軍占領下から復帰したばかりだったこともあって、そういった大会の多くは「米軍さんたちとの合同レース」だった上に、日本製のラジコンと比べると、どうしても米国製のラジコンの方が遥かに性能が良かったりする訳です。

当然、そう簡単に勝てるような易しいレースではありません。



ですが、お兄さんという「最高のメカニック」が用意した「至高の機体」を、「その機体を知り尽くした僕」が「持てる限りの技術を尽くして操作」する。

お互いがそれぞれの「持ち味」と「強み」を全力でぶつけ合うことで、僕たちは幸運にも幾つもの大会で優勝を経験することができました。

 

とある大会では「大人の部」と「子供の部」が分けられていたことがあり、後者に参加した僕の優勝タイムが、前者での優勝タイムを上回ることなどもあったんですが、その時の嬉しさと誇らしさと達成感がない交ぜになったような感覚は、今でもはっきりと思い出すことができます。

今でも実家に飾られているトロフィーの数々は、僕の青春時代のかけがえのない想い出であり、またちょっとした誇りです。

 

 

そんなこんなで、小学生から中学生にかけては、まさに青春のほとんどをラジコンに捧げることとなった訳ですが、そんな僕とラジコンとの「蜜月」とも言える時間は思わぬ形で、あるいは悲劇的とも喜劇的とも言える形で終わりを迎えることとなりました。

事件が起きたのは、僕が高校2年生の時です。

 

1年間のイギリス留学を無事に終え、すっかり芽生えたホストファミリーや英国への慕情に後ろ髪を引かれながらも、それ以上の家族や沖縄への郷愁に背を押されつつ帰宅した僕を待ち受けていたのは、まったくの「無」でした。

 

 

僕が心血を注ぎ、時に金欠になりながらも集めたラジコンは、すべて留学中に捨てられてしまっており、ただの一つも残されていなかったのです。

何なら、「僕の部屋」自体が家の中から綺麗さっぱり消え去っていました(笑)。



そうして、無情にも実行された「断捨離」の“荒行”を経て、ラジコンという名の“煩悩”から強制的に解き放たれた僕は自然、留学中に開眼したばかりの「医の道」という“新たな沼”に身を投じることになったとさ。

めでたし、めでたし。




──などとは、当時の僕からすれば口が裂けても言えないようなほろ苦い笑い話ではありますが、ただメカニックのお兄さんと肩を組み「ラジコン」に全身全霊で打ち込んだ青春時代の経験は、僕の中に、一つのとても大切な「人生観」を根付かせてくれたように思います。

言ってみれば、当時の僕はラジコンを「操作していただけ」で、メカまでを作っていた訳ではありません。

 

 

これは物事全般に言えることだと思うんですが、例えば車を乗るのだって、まず「車を作っている人」がいて、例えばパソコンを使うにも、まず「パソコンを作っている人」がいる訳で。

さらに例えれば、いま僕が病院で医者として仕事をさせてもらっているのもまったく同じであって、そういった無数の人たちの技術や努力の積み重ねの上に、自分はいい仕事をさせてもらっている訳です。

 

 

「自分の成果」は、決して「自分ひとりだけの成果」ではあり得ない。




青春時代に得たこの教訓を改めて心に刻み直し、今年もまた新たな目標に向かって一歩ずつ精進していきたいと思います。

 

山城   

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